夢 幻
「」
そう呼ぶ貴方の声が時々とても遠くに聞こえる。
貴方はあたしの幼馴染みで、上官なのに。
まるで違う世界の人の様に思える時がある。
陽光に溶けない漆黒の髪と瞳は圧倒的な存在感を放っているのに、
何だか今にも霧散してしまいそうな、そんな不安がじわじわと影を広げていくんだ。
「」
遠い。貴方が遠い。
貴方に比べて、あたしは何てちっぽけなんだろうと思う。
小さい頃からちっとも変わっていないんだ。こんなにあたしは弱いんだ。
「」
いや違う。あたしは変わったのだ。
変わったからこそ、貴方を遠く感じるのだ。
何も知らず無邪気に隣ではしゃいでいたあたしは、もうどこにもいないから。
手を伸ばせば触れられた。
小さく呼んでも必ず振り向いてくれた。
全てを投げ出して甘えられる暖かな場所。
あたしの世界。
あたしの全て。
それはもう。
もうどこにも――――
「いい加減起きんか馬鹿者っ!!」
ごっ、と鈍い音がして、は大きく飛び上がった。
頭のちょうど天辺あたりから激しい痛みが脳へと伝えられる。
慣れ親しんだこの感覚。
間違いない。自分は殴られたのだ、彼に。
錆びついた機械のようにぎこちなく首を動かすと、鬼のような形相でこちらを見下ろすロイの姿がある。
その顔からは普段数多の女性に愛嬌を振りまく女ったらしぶりは想像もできない。
幼馴染みであるにはとことん厳しいのが彼。鉄拳制裁など殆ど日常茶飯事であった。
「勤務時間中に居眠りとはいい度胸だな、?」
「へ?あ、あたし、寝てた…の?」
「寝ていた自覚すらないとは、それは気持ちよく眠れたろう、よかったな。」
「あの、ロイ、痛いです…」
渾身の力を込めて頭を撫でられたとてちっとも嬉しくない。
かといって反論する勇気も持ち合わせていないは起立した姿勢のまま青ざめるしかできなかった。
小さく視線を泳がせると、ハボックが「ご愁傷様」といった顔で煙草を吹かしているのが見えた。
薄情な同僚に少しむかっ腹が立つ。
「春だからといって少したるんでいるぞ!気を引き締めろ!!」
「サボりがてらにこの部屋来た人がよく言うぜ…」
「大佐は年中無休でたるんでるじゃないですかねえ?」
「ブレダ少尉、フュリー曹長、何か言ったかね?」
「「いえ何も」」
図星を突かれても全く怯まないのがロイの図太い所である。
誰のことを言っているのかさっぱり分からないといった顔で聞き流してしまった。
その鮮やかな手法に思わずファルマンが拍手を送る。ここまで開き直られるといっそ気持ちいいくらいだ。
と、怒られている身として笑っていいものか考えあぐねていたの方へ再びロイが向き直った。
彼の手が静かに持ち上げられ、次の瞬間ぺチッと渇いた音が響く。
「…具合でも悪いのか?」
額に当てられた温もりには大きく目を見開いた。
自分を見下ろすロイの表情は先程と一転してひどく気遣わしげなものになっている。
滅多に与えられない優しい仕草に、の頬が一気に熱を帯びた。
あまりに分かりやすいその反応を百戦錬磨のロイが見逃すはずも無く。
「何だ急に。本当に熱でもあるんじゃないか?」
「な、ないです!平気!!」
「平気な訳ないだろう、こんなに赤いじゃないか」
「や、あの、それは…」
したり顔で微笑むロイは、の額に添えていた手をそのまま頬へと滑らせた。
そこはかとなく艶やかさを感じさせるその仕草にハボックが小さく「…警告1だな」と呟いた。
勿論二人には届いていないが。
「そうか、そんなに具合が悪いか。それは大変だ。」
「だ、だから別に何ともないって…」
「医務室へ行こうか。私が手厚く看病してやろう」
「いい!いいです!いらない!!」
「心配するな、あそこならゆっくり心往くまで寝られるぞ。あのベッドは中々に丈夫だからな!」
「な…何で寝るのにベッドの丈夫さが関係あ」
「大佐」
いつものように怒涛の勢いで始まったセクハラ。それを治めるのもまたいつもの冷ややかな声音であった。
ロイとが同時に振り向くと、愛銃を手にしてきつく目を細める美しい女性の姿があった。その脇でハボックがいつ作ったのかも分からない黄色いカードをロイの方へと向けていた。
見たままだが「イエローカード(警告)」という事なのだろう。妙な所で凝っている。
「私が少し席を外した間にあれだけの書類を片付けられるとは、流石ですね。」
「…ははは、いや、まあ…」
「当然、片付けてからこちらへ来られたんですよね。」
「そ、それは、その…」
「流石ですね、大佐。」
「…………」
「大佐」
「……分かった、戻るよ。戻るから、ソレを仕舞ってくれないか?」
ようやくホルスターに仕舞われた銃にロイはほっと胸を撫で下ろした。それ以上にほっとしたのがなのは言うまでもない。
が、その安心も長くは続かなかった。部屋を出て行こうとするロイの手には、何故だか自分の手が握られたままになっていたので。
「ろ、ロイ?」
「補佐を頼む」
「大佐〜、レッドカード喰らいたいんスか〜?」
「やかましい、私がこいつをどうしようと私の勝手だ。」
「ロイ、待って、あたし自分の書類が…」
「」
手は繋がれたまま。
たった2、3歩の距離。
低く紡がれた声に体の奥が震えた。
じっとこちらを見つめる瞳に、は確信した。
彼には、全て分かっているのだと。
「まだ寝惚けているのか?さっさと来い」
不安を抱く暇もありはしない。
夢を見る暇も、幻に苛まれる暇も、全て彼が奪い去っていく。
そして乱暴に突きつけて命令するのだ。
こっちを見ろ。
余所見をするな。
私はここだ。
他に気を取られることなど許さないと。
「、早くしろ。中尉が怖い」
ああ、あたしの全ては、遠ざかっても消えてしまってもいなかった。
小さい頃よりもずっと近くにきていたんだ。
「、何かされたら大声で叫べよ。」
「あははは…」
「10分おきに様子見に行きますからね!」
「さっさと仕事に戻れ馬鹿者どもが!」
「大佐ー、イエロー出てんのお忘れなく。」
夢見る暇もありはしない。
幻より愛しい人が、すぐ近くにいるのだから。
陰呼さん10万ヒットおめでとうございます!
フリー配布されていたので、頂いてきてしまいました。
有り難うございました。
(この話と一緒に桐山夢も頂きました。)
素敵な小説をいつも有難う御座います。
これからも影ながら応援しています!!